11-1 船井幸雄氏等が研究していたこととは?【船井幸雄氏から継承される情報】

 平成24(2012)年10月15日から始まった、勉強会を収録したものを、文字に起こしました。これを読み、ひとりでも多くの人の理解がより深まることを願います。

1 宮崎 雅敬

2 船井 幸雄

3 政木 和三

4 西野 皓三

5 古村 豊治

6 善塔 晃

7 高岡 英夫

8 船井幸雄氏の顧客にいろいろな情報を提供した方々


1 宮崎 雅敬

 明治時代になって、漢方医は医者ではなく、薬剤師ということになり、西洋医学を扱うものだけが医者となりました。そして、漢方薬は廃り滅びかけますが、荒木性次(あらき せいじ・別名:木庵・ぼくあん)が、漢方の世界を立て直しました。中国医学ではなく、傷寒論(しょうかんろん)や金匱要略(きんきようりゃく)を基にしました。木庵塾という東洋医学の基礎で2年、薬も調剤の仕方で2年、合計4年間のセミナーがあります(現在は不明)。当時は、漢文の素読から始め、寺子屋のようでした。今は、藤本氏が、教科書を作ったから優しく学べるらしいです。

 荒木氏の一番弟子である藤本肇(ふじもと はじめ)氏から学んだ宮崎雅敬(みやざき がけい こと みやざき まさゆき)氏は、漢方で大抵の病気を治していました。最初の著書は、「気」養生法で、精神病でも漢方で治ると豪語されていました。金匱要略(きんきようりゃく)の中に、大黄䗪虫丸(だいおうしゃちゅう がん)、 䗪虫はゴキブリという意味で、血痺虚労病(けっぴきょろうびょう)と言って、血栓、過労にとても効果が高いといわれています。漢方薬は波動で効くため、波動を作り出せば、実物は必要ありません。握薬(あくやく)と言って、握っておくことや、出涸らしをお風呂に入れると効くのは、波動で効いているからです。波動の種類を多く知れば、それだけ対応の幅が出ます。船井氏は、波動転写機というのを製作して売っていました。

 絵を見て、音楽の旋律などが思い浮かぶ人もいれば、音楽を聴いて映像が浮かぶ人もいます。トライアングルと、その上に砂をおいた紙を用意し、トライアングルを叩いて音を出すと、紙の上の砂は図形を形作ります。その時に、トライアングルの形と、トライアングルから出た音と、紙の上の砂の図形は、同じものです。実態は、形が異なる波動と理解することができます。全ては波動を意味しています。文字を見ることによって、波動に焦点が合う人もいれば、味覚で波動に焦点が合う人もいます。焦点さえ合えば良いのです。波動に焦点を合わせることができれば、その波動を作り出せます。誰でも、そのぐらいの能力は持っています。

 薬は、服用と言って、もともと服に薬草を貼っていました。飲んだらどんな副作用があるか分からないからです。時代劇で、お殿様が頭痛の時、紫の鉢巻をしているのは、薬草で染めた布を頭に巻いているのです。白いものは間違いです。

 能力の高い漢方の先生は、望診(ぼうしん)と言って、患者を眼で見るだけで薬を処方していました。宮崎氏は、「治るのなら一流の材料を惜しまず使う」という考え方で、大物政治家や著名人をお客様に持ち、薬代が1月30万円程度を多く売っていたと聞きます。しかし、船井幸雄氏のグループ内では、漢方薬は波動で効くから、買う必要がないと言っていました。

 宮崎氏は、古法という漢方と、癒成元(ゆなるげん)を用いて、難病を治していました。癒成元は、「気」養生法という著書にもでてきますが、戦前、京都の音羽(おとは)の滝で、日本酒の蔵元をしていたナカムラ氏が、杜氏が病気にならないことに気づき、京都大学の薬学の先生に相談しました。麹菌の中にプリザリウム菌が出す抽出液を飲ませたら、あらゆる病気が治りました。かなり匂います。厚生省が、陸軍の万能薬として採用しました。戦後、厚生省から万能薬はダメと言われ、漢方薬と混ぜて薄くして3種類に分けて作りました。今は、健康飲料に変えて販売しています。

 宮崎氏は、株式会社船井総合研究所社長、船井幸雄氏に経営の相談をしました。船井幸雄氏は、経営指導もしますが、宮崎氏に難病を抱えるお客様をたくさん紹介しました。そこで、宮崎氏は、多くの難病患者を治しますが、治せない難病もありました。それを船井氏に報告すると、顧客向けにつくった直感力研究会に、色々な人が来るからと宮崎氏を招待しました。宮崎氏は、直感力研究会に参加し、色々な先生と会うことになります。

▲トップに戻る

2 船井 幸雄

 船井氏は、京都大学農学部卒で、経営コンサルタントとなり、自身の経営コンサルタント会社を大きくしていきました。スーパーなどの流通系に強みがありました。100戦練磨、100発100中の実力でした。

 しかし、コンサルタントをしても、船井氏の言うことを聞かない経営者がいました。なぜかと問いただすと、悩み事が多く、家族にも相談できない経営者は、神がかり的なことに頼る人たちが多くいたからです。そこで船井氏は、会いに行き、霊媒師や霊能力者などをことごとく論破していきました。しかし、中には、なぜか分からないけど、すばらしい能力者がいたために、船井氏は、研究を始めることになりました。霊の存在や憑依、妄想、直感力による未来予言など、多くの能力者から多くの情報を得て、隠れながら経営コンサルタントに活用していました。そして、オカルトコンサルタントと呼ばれてしまう様になります。

 そんな頃、「幽体離脱すれば時間を超えて未来のことが分かる」という情報を得て、「人間は顕在意識に惑わされなければ、元々、いろんなことが分かるのではないか?」「近未来のことが分かるのではないか?」と考え至りました。そして、経営者には近未来をみる直感力が必要で、どうしたら直感力を強くできるかを研究して、それに役立つ先生方を招いた直感力研究会をつくったのでした。

▲トップに戻る

3 政木 和三

 そんな頃に、船井氏は、政木和三(まさき かずみ・発明家)と出会います。本来は、計測のプロでした。ユリ・ゲラー氏が来日した時に、手を触れないでスプーン曲げをする少年のガラスケースに入ったスプーンが、曲ったかどうかの計測を依頼されました。実験は、見た目にはスプーンが曲っていない様に見えたので、失敗だと皆は思いましたが、計測すると、人の目では分からない程度曲っていました。自身の計測を信じる政木氏は、超能力を信じ、研究を始めました。

 政木氏は、多くを発明し、特許も何十件も取得しています。炊飯器やエレキギターなどは、政木氏の複数の特許が使われているといいます。特許は全て開放していたため、政木氏が退職する際には、電気会社社長が集まってお礼に来たといわれています。

 
船井氏に、「ふりこ」のことを教えたのは、おそらく政木氏であろうと言われています。天才的な反面、性格は頑固で、「まだ皆には早い」と言って、発明を表に出さなかったこともありました。ヘミシンクリオンにも取り組んでいたり、脳波をθ派にする機械を発明したり、太陽光と同じライトには、政木氏の特許が15以上入っていると言われています。政木氏は、退職後、岡山県にある1回倒産した林原研究所に、亡くなるまでいました。

▲トップに戻る

4 西野 皓三

 西野皓三(にしの こうぞう)は、戦後、男性も入団できる時期があり、宝塚歌劇団に入団し、2~3年で先生に昇格し4~5年在籍していました。その後、渡米をし帰国後、西野バレエ団を創立しました。その後、道場を設立し、西野流呼吸法として、呼吸から「気」を教えています

 意識が高い人は、エネルギーが多く入ってきます。意識圧を高く持てるかどうかは、天性のものです。キャパシティが大きいということです。魂が大きいとも言います。密度が違います。普通の人は、会社で例えると100名ぐらいの規模だが、西野氏は1万人ぐらいの会社です。扱っているお金の量が、全く違うという事になります。

 生まれ変わりの回数も桁違いで、普通の人が1千回の舞台を踏んでいる役者だとしたら、西野氏は10万回です。意識が濃い、気は意識で動く、意識には構造があり、質・量・形もあります。意識が強いと、幽体も動かせます。

 西野流呼吸法における「対気(たいき)」は、対気1年分が、呼吸法10年分に値します。100ボルト流れる電線に、200ボルト流したおかげで、110ボルト流れる様になったという感じです。気を一気に入れられると、筋肉は硬直しますが、ゆっくり入れられると筋肉は緩みます。大量に入れられると、体を暴れさせて抜き、一定の所で落ち着きます。

▲トップに戻る

5 古村 豊治

 古村豊治(こむら とよはる・愛知県桑名の宅地造成のデヴェロッパー、会社社長で船井氏の顧客)は、1980年代、船井幸雄氏が「ふりこ」で助言しているのを見て、尋ねたら、「フーチという技術で、自分の直感力を増幅して表現しているもの」と説明されました。「理論的にもいいと思ったことを、直感的にもいいかどうか確認して助言している」と言われました。「教えてください」とお願いしたが、船井氏は教えてくれませんでした。「100%当たるわけじゃないし、自分のことになると、外れることも多いから、やらない方がいいよ」と言われました。古村氏は、諦めきれませんでした。

 その後、自分で研究していたら、知り合いから「そういうことにご興味がおありなら、私の父がそういうことを研究している変わり者なのですが、紹介しましょうか?」と言われ、紹介されたのが、在藤泰秀(ありふじ やすひで・著書「霊波センサー」・密教・言霊学・錬金術・神智学・陰陽道研究者)でした。古村氏は、在藤氏から教えてもらいますが、しばらくして、在藤氏が亡くなります。そして、在藤氏の研究資料を全て、もらうことになりました。資料が大量にあったので、仲間を集めて、色々な研究をしていました。

 宮崎県にある、野口克己(のぐち かつみ)氏が創立した野口総合研究所は、タキオンエネルギー、研究内容はエネルギーの炉の作り方、光速よりも早いエネルギー、銀河水を作っていました。この技術を発展させたのが、おそらくファイテンという会社です。平田(ひらた)氏は、野口総研に関わっていたのでしょう。ファイテンの技術もエネルギーの炉、形状と、水晶、コイル、図形、圧力などを組み合わせてエネルギーを照射して、照射されたものの性質を変える技術です。野口総研が、タキオン技術として取り組んでいました。ヌース理論をつくった、半田公宣(はんだ こうせん)氏の兄が、野口総研にいて、充電し続ける電池、放っておくと充電される、空間エネルギーの研究から開発しました。

 古村氏が、研究の末、いろいろなことを講師として教える様になりました。そして、宮崎先生が愛知県在住で、古村氏が住んでいる三重県と近かったので、接点ができます。宮崎氏は、ずっと古村氏の研究会に出席する様になりました。宮崎氏は、治療家なので研究会で得た情報をすぐに実践し、成果を出し実績を積んでいきました。

 バイ・ディジタル・オーリング学会、大村恵昭(おおむら けいしょう)氏は、民間でオーリング、筋肉反射テストなどがあるのは知っていました。徐福(じょふく)伝説、秦の始皇帝からお金をもらって、不老不死の薬を求め、一族郎党で来日した徐福が、食べても大丈夫かどうかを判定するのに筋肉反射テストを使ったという記録が残っているくらい、人間の体の反応を見る昔からある方法です。

 大村氏は、医学に持ち込もうとして悩み、ソニー創業者の井深大(いぶか まさる)氏に相談しました。井深氏は、自分の子供が身体障害を負っていたため、治療方法に見識があり、自身も気功をやっていたりしていました。井深氏は、「頭の硬い医学会に、オーリングは持ち込めない。アメリカで技術特許を取得し、実績を積めば、日本の医学会に持ち込める様になる」と、言いました。大村氏は、そのことを信じ、アメリカで特許を取得し、帰国後、バイ・ディジタル・オーリング学会を創立し、電磁波理論として広め始めました。

 ところが、医者の立場からすると、1人に1時間もかかるし、占いみたいで怪しいからとあまり賛同者がいませんでした。薬剤師には、薬を判定するのに良い方法だと、学会には薬剤師が多く在籍していました。宮崎氏はオーリング学会員でした。そして、フーチとオーリングのやり方は同じだと考え、オーリングを試したら、うまく行きます。それを、オーリング学会とは別のやり方で、高次元オーリングテストと名付け、始めました。

 船井幸雄氏が、「直感力の研究」という著書に、宮崎氏がオーリングの第一人者と書いて、大村氏が「オーリングテストというは、アメリカで技術特許を取った私の電磁波理論に基づくものだけだ」と、3名が大喧嘩になりました。和解まで5年を要しました。

 結局、医学会に切り込むには、オーリング学会のオーリングテストを大事にしようとなり、宮崎氏は、超意識筋反射テストやコーザルトークと名前を変えました。古村氏は、イメージフィンガーテスト、IF(アイエフ)テストと言っていました。

 なぜ、名前を統一しないかというと、古村氏と宮崎氏も仲が悪くなっていました。宮崎氏は、良いと思う情報をどんどん著書に書いていました。続「気」養生法では、 古村氏から習った方法や船井氏との対談、漢方の先生との対談、波動の機械のエモト氏との対談などが書かれていました。そして次の本も書き、売れました。そしたら、古村氏が「宮崎くんにも困ったものだ。我々が、うちわで研究したことをどんどん本に書いてしまう。それも中途半端な書き方だ」と怒りました。「中途半端だから、もっと本格的に書こう」と書いたが、売れませんでした。この辺りから、古村氏と宮崎氏の仲が悪くなりました。

 
古村氏は、事業が失敗し、逃亡生活に入ります。「あんなに人間性がとか、霊性がとか、未来のことが分かった先生なのに、やっぱり自分のことについては分からないのか」と、船井氏が「自分のことは外れるからやめた方がいいと言ったのはこのことだったのか」と言われてしまいます。古村氏は、地下に潜って、警察と反社会組織に追われ、長谷川氏という方が清算し、事業をやめ、今(当時)は時空研という研究会をつくっています。

▲トップに戻る

6 善塔 晃

 古村氏と宮崎氏の仲が良かった時に、世に知らしめようと、高次元研究会という研究会をつくっていました。当時は、愛知県でやっていたので、東海高次元研究会という名前でした。善塔晃(ぜんとう あきら)は、その第1期生です。数回で古村氏が来なくなってしまったので、宮崎氏から教わっていました。

 船井氏の研究会はいっぱいあって、裏の「ハバ会」というのもあり、特殊能力者ばかりを集めて、船井氏の別荘に行き、未来予知などをしていました。船井氏が、顧客が年寄りばかりでつまらないと言い、船井氏の秘書の女性が中心になり、2月に1回「わかば会」として集まり、無料でその当時の最新情報を提供してくれました。質問は何でもさせてくれました。ここに善塔氏は参加していました。船井氏はゲストを招いて紹介してくれて、宮崎氏などと知り合いました。5年ほど続きました。

 船井氏に「どうすればいいでしょうか?」と質問すると、「そんなもん人間性高めればできるだろ」と答えられ、「どうすれば人間性を高められるのでしょうか?」というのには、「我欲を捨て、反自然行為をやめて、愛を持って良心に従って生きれば、人間性なんてすぐ高まるんだよ」とおっしゃっていましった。善塔氏は、「我欲をどうやって捨てれば…反自然行為とは…」と、分からないことだらけで、行き詰まっていました。

 そんな時に、宮崎氏の本に東海高次元研究会のことが書かれていて、それに参加することを決めました。そこに参加すると、船井氏の研究会で教わった総論を、宮崎氏の研究会ではその各論・技術論という形で教わっていました。ひと月おきに両方の研究会をずっと行っていました。西野流呼吸法に参加していた人から紹介されてので、呼吸法も並行して行っていました。船会社の会社員だった善塔氏は、速読、速聴、多言語習得などの能力開発を研究していました。そこで、呼吸法が大事だと耳にし、西野流呼吸法に行きました。研究会を紹介してくれた人も、研究会の幹事をしていたので、西野流呼吸法は25年(当時)以上続けています。

 そんな中、宮崎氏から依頼を受け、会社を辞め、東京で高次元医学研究所、意識波動医学研究会を創立しました。宮崎氏は、医学という名前を取りたかったが、お弟子さんに医療関係が多くいたので、付けざるを得なかったと言っていました。医学関係以外のことは、善塔氏が全て引き受けていました。宮崎氏が本来やりたかった、目に見えない世界の本質がどうなっているのかの最前線を任されてやっていました。他の先生方が行き詰まったこと、分からなかったことを研究して解いています。解いたことは、皆に教えるため、変わったことは真っ先に来る様になりました。

 善塔氏は、高岡英夫(たかおか ひでお)氏のところへも身体意識を学びに行っていました。

▲トップに戻る

7 高岡 英夫

 高岡氏は、意識が見えます。武道をずっとやっていて、人の意識が見える様になりました。意識が薄いところを狙うと、相手はよけられません。大人になっても軸を持っていると天才で、イチローやマイケル・ジョーダンは意識の軸がしっかり通っています。気配で感じるのは、意識を張っているからです。声を掛けづらい人は、意識で壁を作っているからです。意識には構造と動き、性質があります。いじめられっ子は、自分の方に長い槍が刺さってくる意識を作り、その中に人が入ると、その人がいらっとして、その子をいじめたくなります。武道では、わざと槍の意識構造を作り、相手に狙わせて、カウンターを狙います。パームという意識構造は、相手をとろけさせます。田中角栄氏や長嶋茂雄氏が持っています。病気にも意識構造があります。胃癌専門医が胃癌になりやすいのは、意識が移ることを示しています。意識を作ったり、消したり、変えたりすることで、変化を起こしやすいです。応用も効きます。

 時間は関係なく、その人や物を知れば、意識を体得できます。宮本武蔵の五輪書を読んで、宮本武蔵の意識構造を体得した高岡氏は、二天一流を解説していました。武道、経営者、スポーツ選手、会社など、色々な意識構造を解析し、その意識構造を作れば、その行動ができる様になります。

▲トップに戻る

8 船井幸雄氏の顧客にいろいろな情報を提供した方々

※直感力研究会の講師として来て、船井幸雄氏の顧客にいろいろな情報を提供した方々です。

矢山利彦(ややま としひこ):気功、東洋医学
青木宏之(あおき ひろゆき):新体道、遠当ての術
黒澤吾耶(くろさわ あや):自動書記、御筆先、経営コンサルタント
足立育朗・幸子(あだち いくろう・さちこ):チャネリング・テレパシーと似ている。相手と交信し、情報を得る
浅野信(あさの まこと):リーディング・集団の情報層から、図書館の情報にアクセスして読む

▲トップに戻る